「わたしにあるもの」10月2日

敬⽼感謝礼拝メッセージの要約(2022. 10. 2.)

「わたしにあるもの」

使徒⾏伝 3章1〜10節

 

ペテロが⾔った、「⾦銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。 ナザレ⼈イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(使徒⾏伝 3:6)

 

1、わたしたちを⾒なさい

⽣まれながら⾜のきかない男性が、「美しの⾨」と呼ばれる神殿の⾨のそばで、 施しを求めていました。ペテロとヨハネは、彼をじっと⾒て、「わたしたちを⾒なさい」と⾔いました。これは、彼ら⾃⾝が⼀体何によって⽣きているのかを⾒なさいという意味です。この⼀⾔はこの男性の⼈⽣に⽅向転換をもたらしました。これは、私たちに何を⾒つめて⽣きるのかということの⼤切さを教えています。私たちは、⾃分が⾒つめるものに向かって歩み、⽣きる者であるからです。

 

2、わたしにあるもの

ペテロは、この男性に対して、「⾦銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ⼈イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じました。それは、キリストの救いの恵みを受けて、キリストの救いの御業にふさわしく 歩みなさいということです。主イエスを信じる者には、キリストの⼗字架と復活によって、罪を赦され、新しい命を与えられ、聖霊の⼒によって、主イエスとともに歩むという恵みが与えられています。主イエスの御名は、私たちを⽴ち上がらせ、キリストとともに歩ませ、⽣けるまことの神への賛美と礼拝に導くのです。「わたしにあるもの」は、年齢を重ねても、体に弱さを覚えても、落ち込むような状況でも、私たちを⽣かし、歩ませるものであるのです。

 

3、美しの⾨の中へ

私たちは、キリストの救いの恵みに⽣かされている者として、美しの⾨の外でうずくまるのではなく、美しの⾨をくぐって、神様を礼拝するという恵みにあずかっているのです。ただ⼈や⾦銭に頼り、へたりこんで、神様を⾒上げることをしないならば、それこそ、主イエスの御業を通してあらわされた神様の恵みを無駄にしてしまうことになります。この男性に起こったことは、私たちにも起こることであり、 私たちは美しの⾨の中へと招かれているのです。主の救いの恵みを覚えて、イエ ス・キリストの御名によって歩んでいきましょう。