「キリストを見上げて」9月11日

聖⽇礼拝メッセージの要約(2022. 9. 11.)

「キリストを⾒上げて」

コロサイ⼈への⼿紙 1章24〜29節

 

わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての⼈を訓戒し、また、 すべての⼈を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として⽴つようになるためである。(コロサイ1:28)

 

1、キリストの苦しみ

パウロは、「キリストの苦しみのなお⾜りないところを」と記しています。これ は、主イエスの⼗字架の苦しみが不⼗分であったということではありません。主イエスは、キリスト者たちを激しく迫害していたパウロに、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と語られました(使徒9:4)。主イエスは、教会の苦しみをご⾃⾝の苦しみとしてくださっています。私たちも、教会のために苦しむこともあります。しかし、それはキリストの苦しみであり、キリストのからだである教会を建て上げるために、私たちが受けるべき苦しみであるのです。

 

2、キリストの奥義

パウロは、「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」と記しています。奥義とは、今まで神のうちに隠されていましたが、 時にいたって、神を信じる者たちに明らかにされた神の救いの計画を表しています。 その奥義とは、ユダヤ⼈だけでなく、異邦⼈にも、キリストを信じるすべての者たちの中にキリストが住まれるという恵みでした。「あなたがたのうちにいますキリスト」こそ、キリスト者たちに明らかにされた奥義であったのです。

 

3、キリストにある⼤⼈

パウロたちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる⼈を戒め、 あらゆる⼈を教えていたのです。「それは、彼らがキリストにあって全き者として⽴つようになるため」であったのです。「全き者」とは、⽬標に辿り着くために、 必要な段階を踏んで成⻑した姿を意味しています。その⽬標とは、キリストが再び来られる⽇のことです。この⽇を待ち望みながら、コロサイ教会の⼈々がキリストにある⼤⼈として霊的な成⻑を遂げることがパウロの⼼からの願いでした。そのために、パウロが寄り頼んだのは、⾃分の⼒ではなく、キリストの⼒でした。私たち は、再び来られる主を待ち望みながら、キリストにある成熟を祈り求め、主のみことばに養われつつ、主とともに歩んでいきましょう。