「どこからどこへ」1月7日

聖日礼拝メッセージの要約(2024. 1. 7.)

「どこからどこへ」

ヨハネによる福音書 7章25〜36節

 

わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである。

(ヨハネ7:29)

 

1、どこから

仮庵の祭りにおいて、エルサレムのある人たちは、「主イエスはどこから来られたのか」ということを話していました。彼らは、その答えを人間的な理解に求めていました。これに対して、主イエスは、父なる神のもとから来られた方であることを明らかにされます。すなわち、ご自身こそがキリストであることを宣言されたのです。これは、人間的な理解ではなく、信仰によってのみ受け入れることのできる真理です。そして、この真理は、私たちが主イエスを救い主と信じることによって、神によって新しく生まれるという救いにつながっているのです。

 

2、どこへ

一方で、ユダヤ人指導者たちは、「主イエスはどこへ行かれるのか」ということを論じています。このことについて、主イエスは、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く」と述べられています(ヨハネ7:33)。主イエスは、父なる神の御心に従い、十字架の上で死なれ、死より復活され、父なる神のもとに行かれます。つまり、今日の箇所で、主イエスは神のもとから来られ、そして、神のもとに行かれると言われているのです。これは、キリストにあって、私たちが招かれている道であるのです。

 

3、どのように

主イエスは、最後の晩餐の席において、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言われています(ヨハネ14:6)。私たちは、主イエスという道を通らない限り、父なる神のみもとにいくことはできません。主イエスは、神から来られ、そして、神のもとに行かれると言われました。私たちは、主イエスを信じる信仰によって、神から生まれ、神のもとに行きます。私たちは、主イエスという道を歩む中で、みことばと聖霊の働きを通して、練られ、鍛えられ、きよめられ、キリストの似姿へと変えられていくのです。主イエスは、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と約束されています(マタイ28:20)。主がいつもともにおられるという豊かな恵みを覚えて、永遠につながる今を、主とともに歩んでいきましょう。