「神の栄光を求めて」11月26日

聖日礼拝メッセージの要約(2023. 11. 26.)

「神の栄光を求めて」

ヨハネによる福音書 7章10〜24節

 

自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。(ヨハネ7:18)

 

1、人を恐れる心

群衆の間では、主イエスについていろいろとささやかれていました。「あれがよい人だ」と言う者もいれば、「いや、あれは群衆を惑わしている」と言う者もいました。しかし、主イエスについて公然と語る者は一人もいませんでした。なぜなら、ユダヤ人指導者たちは、人々を会堂から追放するという権力をもっていたので、群衆は彼らを恐れていたからです。彼らの心は恐れによって支配されていたので、主イエスへの認識もうわべのものにとどまり、主イエスを信じることができなかったのです。結果として、彼らは、「神われらと共にいます」という恵みを受けることができないでいたのです。

 

2、悔い改めない心

一方で、ユダヤ人指導者たちは、主イエスを殺そうとしていました。これは、十戒の第六の戒め、「殺してはならない」という戒めを破るものです。律法を熟知していると自認していた彼らの心は、殺意に満たされていたのです。うわべを美しく飾っても、彼らの心は罪に汚れていたのです。彼らには、殺意と悔い改めない心という問題があったのです。自分の栄光を常に求め、神様の御心に従わず、悔い改めない心こそ、彼らが、主イエスを信じることができない原因であったのです。彼らも、「神われらと共にいます」という恵みを受けることができないでいたのです。自分の栄光しか求めない彼ら自身が最大の偶像であったのです。

 

3、神の栄光を求める心

私たちも、群衆やユダヤ人指導者たちと同じ罪や弱さを抱える者たちです。しかし、主イエスは、そのような私たちを救うために、神の栄光のために、神の御心に従ってくださったのです。主イエスが、安息日に病人をいやされたというしるしは、ただ肉体をいやされたということだけでなく、心の割礼を施されたことを意味しています。心の割礼というのは、主イエスを信じ、聖霊によって、うわべではなく、私たちの心から悪が取り除かれ、私たちの内側がきよめられることを意味します。これはキリストの割礼とも呼ばれ、主イエスを信じて心に刻まれるしるしであり、私たちは神様の子どもとして、神様の御心を歩み、神様の栄光を求めて生きる者へと変えられるのです(コロサイ2:11)。「神われらと共にいます」という恵みを深く覚えて、神様の栄光のために歩んでいきましょう。