「命を与えるもの」10月15日

聖日礼拝メッセージの要約(2023. 10. 15.)

「命を与えるもの」

ヨハネによる福音書 6章30〜40節

 

イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。(ヨハネ6:35)

 

1、荒野のマナ

人々は、主イエスに信じるためのしるしを求め、「わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました」と言いました。しかし、彼らは、しるしだけに注目し、神様が天からマナを降らせ、荒野で自分たちの先祖を養われたことの意味を悟ってはいませんでした。マナは、翌日のために必要以上に集めても、保存がきかずに腐ってしまう食物です。それは、神様は、その日の必要とするものを与えてくださる方であり、神様のみことばを日々信じて生きることを意味しています。しるしという見える物ではなく、信仰によって生きることを学ぶためであったのです。

 

2、命のパン

主イエスは、彼らに、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われています。荒野でのマナは、命のパンである主イエスのひな型です。主イエスが言われる「いのち」とは、「身体的ないのち」でもなければ、「精神的ないのち」でもなく、「神の永遠のいのち」です。父なる神は、罪の中にいた私たちを愛し、私たちが永遠のいのちに生きるために、御子イエスを、私たちのために与えてくださったのです。主イエスは、十字架の上で血を流し、肉を裂き、死んでくださり、死よりよみがえられ、私たちを神の永遠のいのちに生きる者にしてくださったのです。

 

3、神のみこころ

主イエスは、「あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない」と言われました。パンは見るだけでは、いのちを養うことはできません。食べてこそ、それは、いのちの糧になるのです。すなわち、主イエスを信じなければ、永遠のいのちに生きることはできないのです。さらに、主イエスは、「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである」と語られています。主イエスといういのちのパンを与えられた者たちは、永遠のいのちに生かされ、また、永遠のいのちの完成を待ち望みながら、今というこの時を生きるのです。命のパンである主イエスによって、日々、生かされ、養われ、きよめられながら、救いの完成を目指して歩んでいきましょう。