「十字架を負って」4月2日

礼拝メッセージの要約(2023. 4. 2.)

「十字架を負って」

マタイによる福音書 10章34〜39節

 

地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。(マタイ10:34)

 

1、「平和ではなく、つるぎを」

主イエスは、十二弟子たちを福音宣教に派遣されるにあたって、「平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」と言われました。これは、福音を宣べ伝えていけば、必ず反発が起こるということです。しかし、私たちは、偽りの平和を得るために、この世と妥協してはなりません。反対されることを恐れて、福音の本質が歪められるならば、教会は使命を失ってしまうことになるからです。キリストの福音によって、私たち自身も私たちの家族関係も造り変えられていく必要があります。それによって生まれる平和こそが、真の平和であるのです。

 

2、「わたしよりも」

主イエスは、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」と言われています。これは、主イエスを何よりも第一に愛しなさいということです。両親や子供を愛さなくてもいいと言われている訳ではありません。両親や子供を愛するということの中心には主イエスへの愛があるかが問われているのです。両親と子供への愛さえも、自己中心的な思いが入ってしまうものです。主イエスを何よりも愛していくことによって、心の中の偶像が砕かれていきます。主イエスを第一に愛することによって、真の意味で、自分の両親と子供を愛することになるのです。

 

3、「自分の十字架を」

主イエスは、「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」と言われています。自分の十字架を負って、主イエスに従うとは、自分の思いではなく、神の御心に従順に歩むことを意味します。福音を宣べ伝えることも、キリストを何よりも愛するということも、自分の思いや欲望のためではなく、神の御心を成し遂げるためです。自分の十字架を負って、主イエスに従って歩むことによって、私たちは古き自分に死に、キリストのいのちに生きる者へと変えられていきます。その歩みを通して、キリストの平和と愛を証ししていくのです。受難週を迎え、私たちは主イエスの苦しみと死を深く覚えて、主の御跡に従って歩んでいきましょう。