「父の道を歩む」6月19日

礼拝メッセージの要約(2022. 6. 19.)

「⽗の道を歩む」

サムエル記上 8章1〜9節

 

主はサムエルに⾔われた、「⺠が、すべてあなたに⾔う所の声に聞き従いなさい。 彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。(サムエル記上 8:7)

 

1、王がいない⼈々

当時のイスラエルは、⼗⼆部族の組織連合であって、⼀つの国家ではありませんでした。イスラエルの部族は、互いに無関⼼で、時には、争い合う状態でした。彼らは、主なる神に背き、偶像を拝み、異邦⼈との多くの戦いで敗北していました。 当時の状況について、⼠師記は、「そのころ、イスラエルには王がなかった」と四回も記しています。 イスラエルの霊的な停滞と堕落、また、統⼀性の⽋如の原因は、主なる神を王としないことにあったのです。

 

2、王を求める⼈々

イスラエルの⺠は、⾃分たちの神様への不信仰と不従順を棚に上げて、サムエルの⽼齢と彼の息⼦たちの悪を指摘し、彼らの失敗の原因を⾃分たち以外のせいにしました。彼らは、神の⺠であるのにもかかわらず、他の国の⼈々をうらやみ、⾃分たちの王を⽴てることを求めたのです。これにより、イスラエルは王制国家になりましたが、⾃分たちの王を⽴てることによって、むしろ王による専制と圧迫に苦しむことになるのです。それは「主こそが王である」という信仰を失った、彼らの不信仰と不従順の結果であったのです。

 

3、王を迎え⼊れる⼈々

主イエスは、「⼈の⼦がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの⼈のあがないとして、⾃分の命を与えるためである」と⾔われました(マルコ 10:45)。私たちのまことの王とは、私たちに仕え、ご⾃分のいのちを捨てて下さった、イエス・キリストです。イスラエルの⺠は、世俗的な王に期待し、裏切られる歴史を繰り返しました。罪と死の⼒が断ち切られ、永遠のいのちという実が私たちのうちに結ばれるには、主イエスを王として受け⼊れるほかないのです。私たちが⼼を開き、主イエスを王として⼼の王座に迎え⼊れる時に、⽣活のすべてに神の恵みによるご⽀配が及んでくるのです。まことの王をほめたたえ つつ、まことの王とともに歩んでいきましょう。