聖日礼拝メッセージの要約(2024. 10. 27)
「愛の連鎖」
ヨハネによる福音書 13章1〜11節
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(ヨハネ 13:8)
1、完全な愛
主イエスは、十字架の受難を控えて、過越の祭りの前に、弟子たちと共に食事の時をお持ちになりました。主イエスは、「彼らを最後まで愛し通された」(13:1)とは、最後の瞬間まで途切れることなく、この上なく完全に愛されたという意味です。これこそが神様の愛です。この愛は、主イエス・キリストを通して、完全にあらわされたのです。主イエスこそ私たちの愛の動機、愛の基準、愛の模範です。この愛は、主イエスにある神様の愛に動かされ、神様との交わりに生きる時にのみ、私たちのうちにあるのです。
2、仕える愛
弟子たちの心は、人を押しのけてでも、踏み台にしてでも、他の弟子たちよりも偉くなりたいという野心に支配されていました。主イエスは、仕える愛を示すために、弟子たちの足を洗われました。人の足の汚れは、その人に跪くかなければ洗うことはできず、それを拭うこともできません。それは自分自身も汚れるということです。主イエスの愛とは、自らが汚れることによって、私たちを洗いきよめる十字架の愛です。神様が私たちに仕える究極の姿は、ご自身のいのちを捨てて、私たちにいのちを与えるということを通してあらわされたのです。
3、与える愛
主イエスは、ペテロに対して、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と言われました。私たちは、主イエスを救い主として信じて、罪を洗いきよめられなければ、神様との交わりを持つことができません。そして、主イエスにあって神様との交わりを持たないならば、私たちは愛し合うことができないのです。神様がいかに私たちを愛しておられるかを知った時に、私たちは、主イエスの姿に倣い、喜びをもって、互いに仕え合い、愛し合うことができるのです。主イエスは、「受けるよりは与える方が幸いである」と言われています(使徒行伝20:35)。神様より与えられた愛に感謝して、キリストの心が私たちの心となり、お互いに仕え合い、赦し合い、愛し合うことができますように、主の十字架をともに見上げて歩んでいきましょう。