聖日礼拝メッセージの要約(2024. 9. 22)
「一粒の⻨として」
ヨハネによる福音書 12章20〜26節
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の⻨が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ 12:24)
1、栄光の時
過越の祭りのためにエルサレムに上ってきた幾人かのギリシヤ人たちは、主イエスのもとを訪ねようとしました。彼らの来訪の知らせに対して、主イエスは栄光を受けるその時が来たと宣言されました。主イエスが栄光を受ける時とは、十字架の上で死なれる時を意味しています。主イエスは十字架の上で死なれることによって、ユダヤ人やギリシヤ人にかかわらず、主イエスを信じるすべての人たちに救いの恵みを得させてくださいました。さらに、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つになるという教会の恵みを与えてくださったのです。
2、一粒の⻨
主イエスは、ギリシヤ人たちの来訪に対して、この一粒の⻨のたとえを話されました。自然界の植物において、新しい生命は死を通してもたらされます。新しい生命が生まれるためには、種そのものが裂けて、砕かれ、もとの形が完全に失われなければなりません。すなわち、一粒の⻨は死ななければ、新しいいのちは生み出されず、豊かな実りもないのです。一粒の⻨が死ぬことを、主イエスはご自身の死と重ね合わせておられます。これは同時に、主イエス一人の死が、主イエスを信じるすべての人々に新しいいのちをもたらすことを示しているのです。
3、十字架の恵み
一粒の⻨のたとえは、ギリシヤ人たちの「イエスにお目にかかりたいのですが」という願いをきっかけとして語られています。つまり、主イエスと会いたいなら、十字架にまで来るようにと、一粒の⻨のたとえを通して語られているのです。それは、主イエスとともに十字架の死にあずかってこそ、私たちは主イエスのいのちに生きる恵みにあずかるという真理を示しています。主イエスに出会うとは、日々、主イエスの十字架と復活の御業によって生きることです。私たちも、一粒の⻨として、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みを受けて、豊かな実が結ばれることを祈りつつ、歩んでいきましょう。