聖日礼拝メッセージの要約(2024. 6. 30.)
「ひとつであること」
ヨハネによる福音書 10章31〜39節
しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。(ヨハネ10:38)
1、神への冒涜
宮きよめの祭りにおいて、主イエスは、「わたしと父とは一つである」と言われました。これに対して、ユダヤ人たちは、人間でありながら、自分を神としていると激しく憤りました。しかし、主イエスは父なる神と一つであり、神の御子であり、神であられるから、自分を神とするのは何の問題のないことです。むしろ、「人間でありながら、自分を神とする」というのは、私たちの問題であるのです。主イエスは、ご自身の十字架の尊い血によって、私たちをきよめてくださり、神様を神様として礼拝する恵みに与らせてくださったのです。
2、神のみことば
主イエスは、詩篇82篇を引用し、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか」と述べられました。つまり、神のみことばを託されたイスラエルの指導者たちが神々と呼ばれるのであれば、生ける神のみことばそのものである主イエスがご自身を神とするのは、神への冒涜でも何でもないと言われているのです。むしろ、主イエスこそ、父なる神に遣わされた神の御子であり、キリスト(救い主)であり、私たちを罪と死から救うために、父なる神の御心を完全に成し遂げられた方であるのです。
3、神のみわざ
主イエスは、わたしのことばを信じられなければ、せめて、わたしのみわざを信じなさいと語られました。それは、主イエスのみわざをつぶやかずに信じるならば、父なる神と一つでなければ到底できないことが分かるだろうということです。主イエスによる宮きよめとは、私たちを真の礼拝者へと造り変えて、神の御霊を宿す羊の群れ、すなわち、一つなる教会をつくられるということでした。聖書には、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」とあります(エペソ4:5)。神の御業によって救われた恵みを心にしっかりと覚えて、同じ御霊を受けた者たちの群れとして、主イエスをともに見上げて、教会の使命を果たしていきましょう。