聖日礼拝(父の日)メッセージの要約(2024. 6. 16.)
「冷たいか、熱いか」
ヨハネの黙示録 3章14〜22節
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。(黙示録3:15〜16)
1、冷たいか熱いか
主イエスは、ラオデキヤの教会に向かって、「あなたは冷たくもなく、熱くもない」と言われました。ラオデキヤでは、熱い温泉水は沐浴に、冷たい湧き水は飲料水として使われましたが、生ぬるい水は強烈な臭気を放つため、どちらにも使えず、口にすると吐き出すほかなかったと言われています。これは、ラオデキヤの教会の悲惨な霊的状態を示しています。教会の信仰は生ぬるく、神様との関係が希薄になり、主イエスを真剣に信じるという生きた証がありませんでした。教会は世俗化し、人間的な考えにおおわれ、聖霊が働いていなかったのです。
2、わたしの愛している者を
ラオデキヤの教会は、神様の前において、自分たちがどれほど霊的に乏しく、みじめな者であるか分かっていませんでした。主イエスは、「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」と厳しく命じられましたが、これには神様の愛があふれています。信仰とは、神様との交わりに生きることです。ラオデキヤの教会は、このままの状態では、教会ではなくなってしまう危険にありました。主イエスは、教会が熱心になって悔い改めて、ご自身との愛の交わりに生きることを心から望まれたのです。
3、わたしの声を聞いて
主イエスは、「だれでもわたしの声を聞いて戶をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と言われています。ラオデキヤの教会の本質的な問題は、扉を閉じて、主イエスを教会の外へ締め出していたということです。食事をともにするというのは、主イエスとの親しい交わりを意味しています。当時の扉というのは、家の中からしか開けることができず、外からは開けることはできないようになっていました。教会の扉を開いて、主イエスをお迎えするのは、私たちであるのです。熱心になって悔い改め、主イエスを私たちの真ん中に迎え入れようではありませんか。キリストにある勝利者として、聖霊に満たされて歩んでいきましょう。