聖日礼拝(花の日)メッセージの要約(2024. 6. 9.)
「仕えるために」
マルコによる福音書 10章35〜45節
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10:45)
1、十字架への道
ヨハネとヤコブは、主イエスに、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」とお願いしました。彼らは、主イエスが受ける栄光とは十字架であることを理解できず、主イエスがユダヤ人の王となる時に、その左右の座につくことを求めたのです。主イエスは十字架という栄光の道を歩んでおられましたが、ヨハネとヤコブは、地上の栄光を求めて、人の上に立ち、仕えられる者になりたいと考えていたのです。主イエスとともに福音宣教に働いてきた彼らですが、実際には、地上のことしか考えていなかったのです。
2、弟子たちの怒り
他の弟子たちは、ヨハネとヤコブに憤慨しました。彼らの関心は、ヨハネとヤコブと同様に、「だれが一番偉いか」ということでした。自分たちを出し抜こうとした二人に腹を立てたのは、彼らの心の中にも、実は、同じような思いがあったからです。主イエスは、そのような彼らを呼び寄せて、「...異邦人の支配者と見られている人々は、その⺠を治め、また偉い人たちは、その⺠の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われました。主イエスは、弟子たちに、互いに仕える者として生きるようにと諭されたのです。
3、仕えるいのち
主イエスは、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」と言われました。「仕える」とは、ほこりまみれになるという意味があります。きよい神の御子は、人となって、罪に満ちた世界に降りてきてくださり、ほこりまみれになり、私たちのために仕えて下さいました。そして、キリストが仕える究極の姿は、十字架の上で血まみれになり、自分の命を捨てて、私たちに命を与えるという形で現されたのです。私たちのために、仕える者となり、命を与えてくださったキリストの愛に応えて、互いに仕える者として歩んでいきましょう。