「光の中に生きる」4月21日

礼拝メッセージの要約(2024. 4. 21.)

「光の中に生きる」

ヨハネによる福音書 9章35〜41節

 

イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネ9:41)

 

1、キリストの恵みに

主イエスは、目が見えるようになった人が会堂から追放されたことを聞いて、彼を見つけ出され、「あなたは人の子を信じるか」とお尋ねになりました。「人の子」とは、救い主、キリストを意味しています。彼は、その方が誰であるのかを知りたいと願い、その方を信じることができるように求めました。彼は肉体の目が開かれただけではなく、霊的な目が開かれ、キリストとの生きた交わりを求めたのです。霊的な目が開かれることは、神の恵みの視点を持つということです。この視点に立った時に初めて神様の愛の中で生かされている自分を知り、キリストにある平安と喜びと感謝の生活が始まるのです。

 

2、キリストの臨在に

主イエスは、彼に対して、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」と答えられました。ここで初めて、盲人であった人は、その開かれた目で、救い主である主イエスを見ました。彼は、「主よ、信じます」と言い、自らの信仰を告白し、主イエスを礼拝しました。主イエスのみことばに聞き従うという信仰は、主イエスへの礼拝という形であらわされたのです。主イエスへの礼拝とは、主イエスを中心とする生活を意味しています。私たちは、礼拝の生活を通して、日々、神様と向き合い、神の臨在の恵みに生かされて歩むという幸いが与えられているのです。

 

3、キリストの光に

主イエスは、パリサイ人たちに対して、「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言われました。神の御業によって目が見えるようになった人を追放した彼らは、実は自分たちこそが霊的に盲目であることに気づいていなかったのです。まことの光である主イエスに背を向け、いのちの光を得ることはなかったのです。盲目であった人は、主イエスの恵みの眼差しに、信仰をもって応答し、霊的な目が開かれ、キリストの光に照らされて歩む者となりました。私たちも、主の恵みの眼差しの中で生かされている幸いをいつも覚えて、まことの光である主イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。