「信仰の自立」4月7日

礼拝メッセージの要約(2024. 4. 7.)

「信仰の自立」

ヨハネによる福音書 9章13〜23節

 

パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。(ヨハネ9:15)

 

1、パリサイ人の尋問

主イエスが生まれつきの盲人をいやされたのは安息日でした。これに対して、パリサイ人たちは、主イエスについて、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」と言いました。彼らの教えでは、主イエスの一連の行為―地面につばきをし、それで泥を作って、盲人のまぶたに塗ることは労働に当たり、安息日の戒めを破ったことになるのです。彼らは、安息日を破った罪人は神から来た人ではなく、盲人の目をいやすことなど出来るはずがないと思い込んでいました。彼らは律法違反ばかりに目を向けて、生まれつきの盲人がいやされた事実と神の御業をともに喜ぶことができなかったのです。

 

2、両親の恐れ

ユダヤ人たちは、その両親を呼び出して、どうしてその人が見えるようになったかを問いただしました。両親は、「...どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」と答えました。ユダヤ人たちは、主イエスをキリストと告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたので、両親は彼らを恐れてそのように答えたのです。両親でさえも、生まれつき盲目だった息子がいやされたことをともに喜ぶことができなかったのです。

 

3、大人の信仰

主イエスによって目が見えるようになった人は、近所の人たちやパリサイ人たちの前においても、一貫して、主イエスが自分のためにしてくださった御業を有りのままに証言しました。両親は、「あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」と突き放すように言いましたが、彼は自立した信仰者として、自分の上に起きた神様の御業を堂々と証ししたのです。近所の人たちも、パリサイ人も、両親も、ユダヤ人の指導者たちもみな彼が見えるようになったことを喜ばず、また、主イエスによる神の御業にあずかることもできませんでした。私たちは、霊的な盲目から解き放ち、いのちの光を得させてくださった主を見上げ、神の御業の証し人として歩んでいきましょう。