「今は見える」4月14日

礼拝メッセージの要約(2024. 4. 14.)

「今は見える」

ヨハネによる福音書 9章24〜34節

 

すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。(ヨハネ9:25)

 

1、キリストの栄光

ユダヤ人たちは、盲人であった彼をもう一度呼び出して、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」と詰め寄りました。主イエスをキリストと認めるならば、彼らは権威を失ってしまうので、神様に栄光を帰するようにと迫ったのです。彼らが求めているのは彼ら自身の栄光であって、神様の栄光ではなかったのです。主イエスとって、栄光とは十字架でした。キリストの十字架によって、私たちは霊的盲目から解き放たれ、いのちの光を得る者とされたことを覚えましょう。

 

2、キリストの福音

ユダヤ人たちは、盲人であった彼に、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。 モーセに神が語られたということは知っている」と言いました。彼らは、モーセと主イエス、律法と福音を対立するものとして理解していました。これが彼らの大きな過ちであったのです。モーセは、主イエスの影であり、福音とは律法の要求を十字架において成し遂げられたキリストの救いであるのです。聖書には、「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」と記されています(ローマ10:4)。彼らは、ただ悔い改めて、主イエス・キリストを仰ぎ見ればよかったのです。

 

3、キリストの恵み

盲人であった彼は、ユダヤ人たちに対して、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」と言いました。彼は、主イエスが安息日を破ったかどうかは問題にしませんでした。彼にとって、ただ一つ知っていることは、盲目であったのに、今は見えるということであったのです。これこそが、神の御業を体験した彼にとって何よりも確かなことであったのです。私たちも、主イエスと出会い、主イエスを信じ、主イエスによって霊的な目が開かれ、いのちの光を得て、そして、今もキリストの恵みに生かされているということが大切であるのです。「今は見える」という恵みに感謝しつつ、主イエスとともに歩んでいきましょう。