「ただ神のみわざが」3月17日

聖日礼拝メッセージの要約(2024. 3. 17.)

「神のみわざが」

ヨハネによる福音書 9章1〜12節

 

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)

 

1、神のみわざが

弟子たちは、主イエスに対して、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と尋ねました。主イエスは、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」とお答えになりました。病気や不幸は、本人やその親の罪に対する神の刑罰ではなく、その上に神の御業が現れるためだと述べられたのです。人間的には、不幸や絶望に見えることも、それはかえって神の栄光が現れるためだと言われているのです。

 

2、神のみことばに

主イエスは、地面につばきをして、そのつばきで泥を作り、それをその盲人の目に塗り、シロアムの池に行って洗うように言われました。主イエスは、その場で、その盲人を癒すことはできました。しかし、彼に対して、ご自身のみことばへの信仰と具体的な応答を求められたのです。シロアムの池は、エルサレムの町の外にあり、そこに辿り着くには800メートルほど歩かなくてはいけません。彼は、つぶやいたり、疑ったりせず、ただ主イエスのみことばに従い、そして、癒されたのです。彼は、主イエスのみことばを信じて従い、神の御業は彼の上に現れたのです。

 

3、神を見る人

近所の人たちの間では、目が見えるようになった人が物乞いをしていた人かどうか、意見が分かれていました。これに対して、彼は、はっきりと「わたしがそれだ」と告白しました。この生まれつきの盲人とは、私たち自身でもあるのです。神の御業というのは、私たちを霊的な盲目から解き放ち、キリストにあって、いのちの光を得させるという救いの御業です。主イエスを自分の救い主として信じ、聖霊によって新しく生まれ、神様との永遠のいのちの交わりに入るということです。この生まれつきの盲人は、肉体的に目が見えるようになったということだけではなく、霊的に目が開かれ、暗闇の中から光の中へ、死からいのちへと生きる者とされました。「わたしがそれだ」という恵みを忘れることなく、キリストのみことばに聞き従い、神のいのちに生きる喜びに感謝しつつ、主イエスともに歩んでいきましょう。