「恵みへの応答」6月12日

礼拝メッセージの要約(2022. 6. 12.)

「恵みへの応答」

⼠師記 16章23〜31節

 

サムソンは主に呼ばわって⾔った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう⼀度、わたしを強くして、わたしの⼆つの⽬の⼀つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。(⼠師記 16: 28)

 

1、ナジル⼈

サムソンは、⽣まれながらのナジル⼈(「聖別された者」)であり、神様にささげられた者でした。また、彼にはイスラエルの⺠をペリシテ⼈の⼿から解放するという使命が与えられていました。しかし、彼にはナジル⼈としての⾃覚はなく、⾃分の欲望のおもむくままに⾏動し、その怪⼒を神様から与えられた使命に⽤いるという思いもありませんでした。キリスト者とは、主イエスの⼗字架の⾎によって聖別された者であり、⾃らを神様にささげていく者であることを覚えましょう。

 

2、最後の祈り

サムソンは、デリラに⼒の秘密を明かし、その結果、彼はペリシテ⼈に捕らえられ、神殿での宴会で⾒世物になってしまいました。彼は、神殿の柱に寄りかかり、それを抱えて、⼈⽣の最後に祈りました。その祈りは、神様の栄光やイスラエルのためでもなく、⾃分の復讐を果たすためというものでした。サムソンの祈りは⾃⼰中⼼的であり、⾝勝⼿です。しかし、⼤切なことは⾃分の無⼒さを知り、⼒なる主を思い出し、主にすがり、主との交わりを求めたということです。⾁体の⽬は閉ざされましたが、信仰の⽬は開かれ、主との交わりに⽣きる者とされたのです。

 

3、神の御⼼

ナジル⼈の特徴は、⼈⽣の間に、新しい誓約を⽴てて、やり直せるところにあります。サムソンは⼈⽣の最後に悔い改めて、ナジル⼈として⽣涯を終えました。私たちも、神様に⼼を向けて悔い改めるならば、神様の恵みと憐れみによって、やり直すことができるのです。主イエスは、「わたしから離れては、あなたがたは何⼀つできないからである」と⾔われています(ヨハネ15:5)。私たちは、⽇々、主と主の⾔葉にとどまり、聖霊に満たされ、主の栄光のために、主の御⼼に従って ともに歩んでいきましょう。