「みことばの飢饉」10月17日

礼拝メッセージの要約(2021. 10. 17)

「みことばの飢饉」

アモス書 8章1〜14節

 

主なる神は⾔われる、「⾒よ、わたしがききんをこの国に送る⽇が来る、 それはパンのききんではない、⽔にかわくのでもない、主の⾔葉を聞くことのききんである。(アモス8:11)

 

1、みことばへの無視

アモスは⽺飼いであり、農夫でしたが、主なる神によって、主のことばを伝える預⾔者として召し出されました。北イスラエルの王様や祭司、貴族階級の⼈たちは、神様を礼拝しているふりをしているだけで、⼼の中は欲望に満ち、貧しい⼈たちからお⾦を搾り取って、苦しめていたのです。彼らは、神様と隣⼈への愛に⽋けていました。神様のみことばを軽んじ、無視していたのです。アモスの名は、「重荷を負う者」という意味です。彼は、イスラエルの苦しみも、痛みも、堕落も、腐 敗も、⾃らの重荷として、その名に恥じない歩みをしたのです。

 

2、みことばの飢饉

アモスは、主のみことばを聞くことの飢饉が来ることを預⾔しました。アモス は、世界の果てまで⾏き巡ったとしても、主のみことばは⾒出せないと告げます。 パンや⽔の乏しさは、⾁体を殺しますが、みことばの飢饉は、霊魂の滅びをもたら します。みことばの飢饉による霊的な飢餓は、⾁体的な若さや健康では補うことは できません。私たちにとって、本当の飢饉とは何でしょうか。それは、パンや⽔の乏しさのことではなく、主のみことばを聞くことの飢饉であるのです。主のみことばを聞くことのできる恵みを無駄にすることなく、この恵みに⽣かされていくということを覚えましょう。

 

3、みことばを⼟台に

主イエスは、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と⾔われています(ヨハネ 6:35)。主イエスを信じて⾃分のうちに迎え⼊れる、それこそが命のパンである主イエスをいただくということです。主イエスは、ご⾃⾝の⼗字架と復活によって、みことばの飢饉をいやし、私たちを罪と滅びの道から救い、永遠のいのちを得させてくださいました。聖書には、「⼈はパンだけで⽣きるものではなく、神の⼝から出る⼀つ⼀つの⾔で⽣きるものである」とあります(マタイ4:4)。主のみことばに聞き、主のみことばを⼟台として歩んでいきましょう。